器用な人と不器用な人がいます。

「あいつは不器用だなあ」
「あの人は器用だよね」
このように言ったりするのを、誰もが聞いたことがあると思います。

その他にも、手先が器用だとか、立ち回りが器用だとか、そういう言い回しがあり、その言葉の裏には、器用ではない人がいるということを誰もが認識しています。

私は、小さな頃から自分の周りの器用な人を見つけては、「自分は不器用な人間である」とことあるごとに思ってきました。器用さと不器用さは、遺伝で決まっているのかと思ったこともあります。
しかし、20代後半あたりから、私のことを「器用だ」と言ってくれる人が現れはじめまして気がついたのです。決して20代前半まで不器用だった私が、何かをキッカケにして器用な人間に進化したわけではありません。

「すべてに器用な人はいない。すべてに不器用な人もいない。」
という、聞けばあたり前すぎることに、その頃ようやく気がついた次第です。

不器用でも、周りから器用な人と認識されるために

自分の得手に帆を上げて生きていけば、「器用な人」と周りから認識されるようになります。一方で、「不器用な人」と評価されてしまうようなフィールドにいるのだとしたら、すぐにフィールド変更すべきであるということ。

職業選択の自由なんて言葉を持ち出すまでもなく、私たちは自分が生きるフィールドを自由自在に選択することができます。

学生時代は、同じフィールドで同じ方向に向かっていくことをなかば強制されますので、いったん「不器用」と認定されると、そのまま自分は不器用であると(私のように…)思い続けなければなりませんが、学校を卒業して一歩社会に出た瞬間から、その閉鎖的な世界から開放されます。

しかし、社会に出てからも学生時代のルールを脳内に引きずったまま生きている人が、一部に存在しています。そのような人たちは、無数にある生き方の選択肢を行使せずに、なぜか自分が不器用だと認識されてしまうような生きにくい世界で生きています。

自分が不器用な部分と器用な部分を把握できていると、人生は必ず楽しめます。
自分にとって器用にできることが生きるフィールドに行くだけ、ですから。